大川フィルムプロジェクト

現在制作中のこのドキュメンタリープロジェクトは;

セクション A – 第2次世界大戦後の極東軍事裁判(東京裁判)被告尋問調書で「スパイ養成学校」とされた『大川塾』を中心にA級戦犯28名の内の一人として起訴されたその「スパイ養成学校」の創始者、大川周明博士とその思想を検証し (上杉幸三マックス編)

セクション B – アジア主義に代表される大川周明博士の国家主義的思想啓蒙運動を歴史的/国際的な独立運動史との関係性、また日本の外側から見た観点の考察を加える (タハラレイコ編) ものである。

このプロジェクトの最終的な目的は、このプロジェクト内で検証/考察された事柄を参考資料とし、戦前~現在に至るまで日本が国としてとった行動、それを取り巻く国際情勢、また2020年現在今尚、隠れた差別/植民地主義に根差し存在する国際関係に対する真の脱植民地化とは何かを、視聴された方々ご自身の視点で考える際の資料の一部として、その活用を大いに望むものである。

大川周明博士とはー

1946年3月、連合国軍最高司令官総司令部、国際検察局に提出されたヒューB.ヘルム検事の作成した資料によれば、

大川博士を極端な軍事主義者達の専門顧問と表現することは全く大げさではない』

『彼は、後に松岡(洋右)と東條(英機)による「大東亜共栄圏」構想と同様の基礎を前もって築いた。大川博士を大東亜思想の父としてその功績を認める事に間違いはない』

『…この男、大川博士は、1938年から1945年まで日本政府に仕えるスパイ要員を育成、アジア全域に配置するために私塾を運営していた。』

そして連合国軍最高司令官総司令部は大川周明博士を日本軍国主義によるアジア侵略の首謀者の一人と考え起訴した。

しかし、大川博士は1946年5月に始まった公判の初日に奇妙な行動を取り始めた。声を出して泣いたり、突然後ろから東條英機の頭を叩いたりして裁判官から退場を命じられた。*

(*その後米人と日本人の二人の精神科医が診察した。診断の結果どちらの医師も、大川博士の異常な行動は脳性梅毒による症状との結論を出した。その梅毒は30数年間前に芸者から伝搬された可能性があるとした。大川博士は裁判から正式に除外され病院に送られた。)

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制作チームの一人、上杉幸三Maxは2007年夏、空き家になった実家をもう一人の制作チームのReikoと共に掃除している際に、1996年に癌で亡くなっていた父親の日出夫が、この”スパイ養成学校”と言われた『大川塾』の96名の卒業生一人であったことを知る。

悪名高きA級戦犯として起訴されたにも関わらず、戦後育ちの日本人にはほとんど認知されていない大川博士とは一体何者だったのか?

その大川博士のA級戦犯容疑の起訴理由の一つとなった『大川塾』とは一体何だったのか?

『大川塾』卒業生等はどのような”スパイ工作”といわれた行動をしていたのか?

父親がA級戦犯と直接関わりがあることを知り驚嘆し、制作者は”スパイ養成学校”と名指しされた知られざる学校について調査を始め、生存する大川塾卒業生にくまなく連絡を取り、それぞれの大川塾生の話を記録し始めた。

同時に共同制作者のタハラレイコはMaxと共に大川博士について深く調べ始めた。二人で米国国立公文書館にも足を運んだ。大川博士の思想や尋問調書、歴史背景をより詳しく知っていくうちにだんだんとMaxとは違った方向に思いが馳せるようになっていった。。。